第5回 改正取引適正化法|「根拠」なき交渉はただの嘆き。原価を見える化し、正当な価格を勝ち取る技術

2026年1月、改正された「中小受託取引適正化法(取適法)」と「受託中小企業振興法(振興法)」が施行されます。本連載ではこれまで、法改正の狙いと全体像、そして製造業・運送業の現場で何が変わるのかを順に確認してきました。条文を読み解くフェーズは、前回までで一区切りです。
第5回は、いよいよ“経営の実務”に踏み込みます。結論から言えば、2026年以降、価格交渉の勝敗を分けるのは法律の知識ではありません。自社の原価を、自分の言葉で説明できるかどうか。この一点です。
「材料が上がった」「人件費がきつい」「燃料が高い」。これは事実ですし、現場の実感としても間違っていません。ただ、取引先の会議室でそのまま口にしても、値段は動きにくい。なぜなら、相手の担当者はその場で単価を決められないからです。社内に持ち帰り、上司や購買部門に説明し、稟議に乗せて、初めて決裁が降ります。その“社内説明”に耐える材料が必要になります。
その材料が、原価です。原価は社内管理のためだけにあるのではありません。交渉の場で、言い分を「お願い」から「提案」に変えるための道具です。今日はその話をします。製造業に限らず、運送業、ソフトウェア開発、サービス業の方にも、そのまま当てはまる形で整理します。
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法改正で「値上げが通る」わけではない
最初に、あえて厳しめに言います。今回の法改正は、値上げを保証してくれる“魔法の杖”ではありません。整備されたのは、協議をしやすくする環境です。門前払いが起きにくくなり、説明なしの一方的な代金決定は問題にされやすくなる。そこまでは確かに前進です。
ただ、交渉の場で必ず問われるのは、「いくらにしたいのか」と「なぜその金額なのか」です。後者が弱いと、話は前に進みません。ここで多いのが、「ニュースを見れば分かるでしょう」という言い方です。たしかに分かります。でも、それは“世の中の話”であって、“あなたの取引の話”ではない。発注側の担当者が上司に説明するとき、「世の中が大変だから上げましょう」では通りません。「この案件のコスト構造がこう変わったので、価格をこう直したい」と言える必要があります。
つまり、法改正は「話をする場」を整えるだけ。そこから先、相手を納得させ、社内決裁を動かすのは、受注側が差し出す資料と説明です。ここで強いのが、原価の裏付けです。逆に言えば、原価が曖昧なままの交渉は、“嘆き”になりやすい。嘆きは共感を生むことはあっても、見積書の数字を書き換える力にはなりにくい。2026年以降、この差は静かに、しかし確実に広がっていきます。
稟議を動かすのは「原価の話」だけ
交渉の現場を、少し具体的に想像してください。あなたが「単価を上げてください」と言ったとき、相手の担当者は頭の中でこう考えています。
「理由は分かった。でも、社内に持ち帰って説明できる形にしてくれないと困る」
担当者は敵ではありません。むしろ、社内であなたの代わりに戦う人です。その人に渡す“武器”が必要で、それが原価の説明です。大事なのは、総額の話ではなく、内訳の話です。どの要素が、どの理由で、どれだけ増えたのか。そこまで分解されていると、相手は稟議に乗せやすくなる。逆に「一式で上げたい」だと、相手は社内で突っ込まれて終わります。
また、原価の話ができると、交渉の空気も変わります。お願いの姿勢ではなく、「この品質とこのサービスを継続するために、条件をこう見直したい」という提案になります。発注側も、サプライチェーンが崩れるのは困る。だから本来、話し合える土台はあるんです。その土台を現実にするのが、原価です。
原価管理というと、「うちは製造業じゃないから無理」と思う方がいます。しかし今回の改正は、製造委託だけの話ではありません。運送、ソフトウェア開発、設計・デザイン、清掃や警備といったサービス提供も含め、広い取引が対象になります。むしろ“形のない仕事”ほど、原価が埋もれやすく、交渉で損をしやすい。だからこそ、今ここで一度、原価の考え方を整理しておく意味が大きいのです。
運送・IT・サービス──「儲からない原因」はたいていここにある
運送業でよく起きるのは、運賃と付随作業の混同です。待機、荷積み・荷下ろし、倉庫内での棚入れや仕分け。現場では「ついでに」「これくらいは」で処理されがちですが、ドライバーの拘束時間はそのままコストです。付随作業が増えるほど忙しくなるのに、売上は変わらない。利益だけが削れていく。いちばん厄介なのは、それが“親切”として積み上がることです。社内でも問題として見えにくいまま、疲弊だけが残ります。
2026年以降、ここは切り分けないといけません。運賃は運賃、荷役や待機は別。時間として記録し、対価として説明できる形にする。燃料費も同じです。「燃料が上がったから」では弱い。どの区間・どの運行で、原価にどれだけ効いているのか。燃料サーチャージとして別建てにするのか、運賃改定の材料にするのか。やり方はいくつかありますが、共通するのは「数字で語る」ことです。
ソフトウェア開発やIT、設計・デザインは、原価の中心が工数になります。ここで利益を溶かすのは、仕様変更と手戻りです。発注者の「ちょっと変えて」に、善意で応え続けると、プロジェクトは静かに赤字化します。納期は守った、顧客も喜んだ。でも利益は残らない。現場は疲弊する。こういう案件が積み重なると、会社全体が弱ります。
ここで必要なのは、感覚ではなく記録です。誰が、いつから、どの追加作業に、何時間使ったのか。メールでも議事録でも工数ツールでもいい。要は「当初の範囲」と「追加」を区別できる状態を作ることです。それができれば、「これは見積外です」と言える。言えると、交渉が始まります。
サービス業(清掃、警備、保守など)はもっと分かりやすい。原価のほとんどが労務費です。最低賃金の上昇や社会保険料負担の増加は、そのまま原価に跳ね返ります。ここで大事なのは、単価の主張に閉じないことです。「上げてください」ではなく、「この条件なら、人数×時間×上昇率で、これだけ増えています」と構造で示す。外部の公表資料(最低賃金、春闘など)と紐づけると、相手の社内説明も通りやすくなります。労務費は“言い訳”ではなく“根拠”になります。
小さく始めて、交渉に耐える形にする
「それは分かった。でも、うちにはそんな余力がない」——ここが次の壁です。だからこそ、完璧を目指さないことが重要です。まずは主力の製品・サービス一つだけでいい。目的は“管理の美しさ”ではなく、“交渉に耐える説明”を手元に作ることです。
最初にやるべきは、総額をほどくことです。原材料費、エネルギー費、労務費、その他の諸経費。ざっくりでもいいので、要素別に見えるようにする。次に、公表資料を手元に置く。最低賃金の上昇率、春闘の妥結額、エネルギー価格や燃料価格の推移。自社の事情を「社会の動き」と接続できるようにしておくと、説明が強くなります。
そして、いちばん効くのは「現場の出来事」を記録に変えることです。短納期対応で残業が増えた。仕様変更で工数が増えた。待機が常態化している。これらは記憶に頼ると曖昧になりますが、記録にすると証拠になります。揉めるためではなく、話し合うための土台として残す。メール一本でも構いません。
契約実務では、「算定方法」を握る発想が効きます。発注時点で金額が確定しない取引はあります。そのときに金額ではなく式を合意しておく。たとえば「技術者のランク別単価×工数+実費」や「基本料金+実費」「区間単価×回数」といった形です。式があれば、追加作業が出たときに請求の話がしやすくなる。逆に式がないと、結局“お願い”になります。
最後に、交渉プロセスを残してください。いつ協議を申し入れたか、どんな返答があったか(返答がないことも含めて)。これは、いざ行政の支援(下請かけこみ寺等)を頼る局面だけでなく、単純に社内の引き継ぎでも効きます。交渉は属人化しやすいので、記録が会社を守ります。
デジタルでスピードを武器にする
ここまでの話を、紙と電卓だけでやろうとすると、たしかに苦行になります。ですが、今は状況が違います。とはいえ、最初から立派なシステムを入れる必要はありません。最初はExcelで十分です。むしろ、いきなりツールを増やすと現場が止まります。まずは「記録が残る」「あとで集計できる」形をつくる。それだけで、原価は武器になります。
たとえば工数なら、毎日きれいに入力させる必要はありません。まずは「案件名」「作業内容」「時間」だけでいい。運送なら「待機」「荷役」「付帯作業」の区分だけでもいい。Excelに一行ずつ残っていけば、翌月には“傾向”が見えます。見えるようになった瞬間に、交渉の話ができるようになります。
交渉は、“鮮度”が重要です。半年遅れで「実は苦しくて…」と言っても、相手は動きにくい。一方で、数字が早く出ていれば、「先月からこの要素がこれだけ上がりました。来月分から条件を見直したい」と言える。このスピード感は、そのまま信頼につながります。相手も、無茶な値引きを求めにくくなる。健全な緊張感が生まれます。
そして、ここから先がDXです。Excelで回し始めると、必ず次の欲が出ます。「入力を楽にしたい」「集計を自動化したい」「案件別に見たい」「月次をもっと早く締めたい」。この“現場の欲”が、デジタル化を前に進めます。最初から「DXをやろう」と構えなくていい。Excelで原価の土台を作り、回り始めたところを順に自動化していく。これがいちばん失敗しないDXです。
DXという言葉を大げさに捉える必要はありません。狙いはただ一つ、交渉に使えるデータを、間に合うタイミングで揃えることです。データを持つ会社は価格を提案できる。データを持たない会社は相手の言い値で働き続ける。これは誇張ではなく、現場で毎年起きていることです。
2026年以降、「原価を語れる会社」だけが前に進む
改正取適法・振興法は、受注側を守るための制度です。ただし、その守りを実際の取引で機能させるには、受注側が原価を語れることが前提になります。原価が曖昧なままだと、「買いたたき」の不当性も言えないし、追加コストの請求も難しい。協議の席に着けても、結局お願いで終わってしまう。
だからこそ、完璧を目指さず、小さく始めてください。主力の製品・サービスを一つ選び、内訳を作り、記録を残し、見積の出し方を変える。これだけでも、交渉の景色は変わります。
そして次回(第6回・完結編)では、交渉で確保した利益を、賃上げ・人事評価・ビジョンへどうつなげるか——“稼ぐ”を“強い会社づくり”に変える話をします。価格転嫁はゴールではなく、経営の再設計の入口です。

中小企業診断士。経営改善計画策定・DX推進を専門とする経営コンサルタント。製造業や建設業を中心に、制度改正対応と利益改善を支援。制度改正を交渉力へ変える実務型支援を行っています。


